なぜオタは現実をそこまで忌み嫌うのですか?
私だって現実は好きではないですが、好き嫌いで判断したところで、それはただの
現実逃避以外の何物でもなく、現時的に意味がありません。
神がいようが、いまいが天に唾すれば自分に戻ってくるのは「道理」。
その道理を無視して生きることは不可能であり、ならば、その確定要素を考慮し
巧く生きるほうが得策。でも、悲しいかな人間は道理だけは生きてゆけない。
こうしてオタはそのつまらぬプライドのために、現実を否定し自分を肯定するわけです。
哀れ。
現実逃避以外の何物でもなく、現時的に意味がありません。
神がいようが、いまいが天に唾すれば自分に戻ってくるのは「道理」。
その道理を無視して生きることは不可能であり、ならば、その確定要素を考慮し
巧く生きるほうが得策。でも、悲しいかな人間は道理だけは生きてゆけない。
こうしてオタはそのつまらぬプライドのために、現実を否定し自分を肯定するわけです。
哀れ。
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「囲い込み」補足(9) キモいから(1) 現実が自分を否定するから(8) なにこの箱…(1) 子供だから。(2) 囲い込みしてるからだ、というモデルを出してみる(2) >そこまで忌み嫌う(14) 辛すぎる運命を背負っているから(1) 好きな飲み物コン(2)
「囲い込み」補足(9) キモいから(1) 現実が自分を否定するから(8) なにこの箱…(1) 子供だから。(2) 囲い込みしてるからだ、というモデルを出してみる(2) >そこまで忌み嫌う(14) 辛すぎる運命を背負っているから(1) 好きな飲み物コン(2)
あえて敷居を作るのだというニュアンスでとっていただければありがたい。
いや、それだからこそ現実は面白い。それを排除するのはおかしいと思うかもしれないが、
しかしオタクは自分の庭にきちんと窓口を作っているのだから、そこで話をすれば良いだけである。
相容れなくともそこで立ち話なりは出来るのだ。
またオタクもその世界観は必ずしも一定では無いだろう。つまり何かに影響されることもある。
しかしその一瞬一瞬に関しては必ず何らかの形で囲い込みをやっている。
さらにこれは私見だが、最近のライトなオタクはオタクらしくない。筋肉マンの代わりに
ひぐらしやハルヒを見ているだけであるように思えてならない。本当のオタクは常に一定の割合なのでは
ないのかと思う。
その話が好き嫌いの範疇でしか語れない、ONとOFFしかない会話なんだからツマランこと必至だろ。
だから会話の現実を知ると、その窓口とやらも、どんどん狭まってゆく。
ノイズ排除しか芸のない防御手段だからなのか、今のオタは女性に対して、恋愛に対してファンタジー感を持ちすぎ。
現実の女性に少なからず落胆を覚えるようだが、じゃあ、オマエはどうなんだよって話には絶対にいかないのが情けない。
どこまで行ってもON、OFFしかない。自省がない。今しか見ない。
ハルヒすら最後は社交性を持ったんだから、萌える前に自分を変えろよ。そういう部分はシカトするから、オタの個性は
「個」ではなく、単なる「現実逃避の結果」でしかないんだよ。オタが個を叫ぶには、あまりにも彼らは脆弱すぎる。
オタはオタの、企業人は企業人の、女子高生は女子高生の、右翼は右翼の、左翼は左翼の、教団は教団の、
それぞれの小さな共同体、彼らだけの現実社会を囲い込み、それらをつなぐ橋はすべて焼け落ちてしまっている。
麻原への信仰というチャンネルに合わせれば、オウムだかアレフだかの窓口にだってアクセスできるが、
それを現実だの社交性だのと呼ぶことができようか。
個などは問うまでもなく、小さな村の中で溶けて消滅している。囲い込まれたものの総意が存在するだけだ。
オタクを攻撃するものは、オタク以外の村の総意であり、空気であって、また彼もどこかの村人にすぎない。
いるのか? オタクを攻撃するのはオタ以外の相違などではなく、オタ自身がそうたらしめているだけだ。
いうなれば社会不適合者へ向けられる得体の知れない存在としての忌諱が、現実への乖離が、だ。
(それが今回の秋葉原無差別殺人犯への動機の解明にも使われてる)
私がいいたいのは、どうしてノイズ排除という庭の純粋化しか「自己防衛手段」を持てないのかという疑問だ。
オウムは宗教にありがちな個人ランキングを用いて、信者をコントロールしていた。オタのノイズ排除による
庭(=個)の純化、防御作用も、結局は社会という「巨大個人ランキング評」に踊らされた結果でしかない。
オウム信者は今でもオウム自身を信じている者がいる。あれだけの悪事を、悪意を見ても信仰に何の影響も
及ぼさないというのだ。オタも同じだ。いかな現実を見ようが『それ(オタ趣味)しかない』から変われない。
彼らだけの「現実社会」があるのなら別に問題ないだろ。橋が焼けようが。
オタの庭は現実社会ではなく、オタ趣味しかない人間の最後の砦、いうなれば現実世界に柵を持たない「脳内現実」の庭。
社会と窓口を持っているかのようにみえて、それは出来うるならば「必要ない」と思ってる程度のシロモノ。
つまりオタは総てにおいて上辺だけの存在であり、庭の例にしても、ネコの額ていどの狭いものしか持ち得ない。
その脆弱性が社会への敵意を育てる。キミがどんなに村社会だと社会を揶揄しようが、オタと社会のパワーバランスは
変わらない。永遠に。まず、それを受け入れるべきなんだよ。シカトするべき世界設定を多くすると、自己防御に攻撃性が
生まれてしまうという危険性に気がつかないのは、オタとオウムの仕様だということを忘れてはならない。
社交性とは窓などではなく、防御手段の一つなのだということをオタは学ぶべき。じゃないと社会から潰されるぞ。
「自分を肯定してくれた他人の手による何か」を潰されることだ
それさえやらなきゃ暴動にはまずならない
社会に潰される、社会不適合者、「オタ趣味しかない」云々はオタク以前にダメ人間
ダメ人間からオタ趣味を取り上げても何も変わらないよ
オタ趣味に相当する他の何かを見つけるか、復讐するか、もぬけの殻になるか
>それさえやらなきゃ暴動にはまずならない
?
そんなこと生きてれば大なり小なり、起こることだろ。
そうならないために今があり、その積み重ねが人生の価値だろ。レベル上げぐらいしろ。
今みたいに娯楽が溢れて、もうそれだけで満足している易い連中が「快か不快」で
物事を判断して(これがオタ連中が幼稚だと言われる最大の理由)ばっかで生きてて、
「自分を肯定してくれた他人の手による何かを潰されること」を防ぐことが出来るの?
窓口を塞いで、より内面に篭る以外に防御手段ねーじゃん。こんなんじゃオタが暴動起こしても潰されるだけ。
結果が分かってるのに騒ぐだけで終る思考回路って、どんだけ逃げの人生なんだよって感じだな。
少なくとも#7は、たとえばダメ人間向け企業体を潰すことなどせんだろう
力があるとも思えんし
俺が言いたいのはそういうこと