なぜオタは現実をそこまで忌み嫌うのですか?
私だって現実は好きではないですが、好き嫌いで判断したところで、それはただの
現実逃避以外の何物でもなく、現時的に意味がありません。
神がいようが、いまいが天に唾すれば自分に戻ってくるのは「道理」。
その道理を無視して生きることは不可能であり、ならば、その確定要素を考慮し
巧く生きるほうが得策。でも、悲しいかな人間は道理だけは生きてゆけない。
こうしてオタはそのつまらぬプライドのために、現実を否定し自分を肯定するわけです。
哀れ。
現実逃避以外の何物でもなく、現時的に意味がありません。
神がいようが、いまいが天に唾すれば自分に戻ってくるのは「道理」。
その道理を無視して生きることは不可能であり、ならば、その確定要素を考慮し
巧く生きるほうが得策。でも、悲しいかな人間は道理だけは生きてゆけない。
こうしてオタはそのつまらぬプライドのために、現実を否定し自分を肯定するわけです。
哀れ。
項リスト(更新順)
「囲い込み」補足(9) キモいから(1) 現実が自分を否定するから(8) なにこの箱…(1) 子供だから。(2) 囲い込みしてるからだ、というモデルを出してみる(2) >そこまで忌み嫌う(14) 辛すぎる運命を背負っているから(1) 好きな飲み物コン(2)
「囲い込み」補足(9) キモいから(1) 現実が自分を否定するから(8) なにこの箱…(1) 子供だから。(2) 囲い込みしてるからだ、というモデルを出してみる(2) >そこまで忌み嫌う(14) 辛すぎる運命を背負っているから(1) 好きな飲み物コン(2)
オタクは一度囲い込みを行って土地を整理する必要がある。そうやって出来た敷居の中に
自分の庭を作り、自分の世界を作る。これが彼の「個」の象徴として機能し、「個」が
存在する以上、「個」にノイズを掛けるような存在はあってはならないからやはり現実を
締め出さねばならない。そうする事で訪問客のみがその庭を踏むことが出来、誰かに
踏み荒らされる心配もなくなる。このように「個」の窓口を作るために現実という、
人々が混在する空間をあえて捨て去っている。
その上でオタクは他者と触れ合うのだとすれば、よほどオタクのほうが社交的である。
何故なら他者との交信は明瞭化され、「私とあなた」という概念の中に他者を設定できるからである。
ただしここでは現実とは、ある世界観一色で塗りつぶせないような場所だと定義している。
俺の知り合いに、嫌いな人間はもうその後に人物評価が変わることがないと言っているダメ人間がいるが
そんな単純な評価基準でいったい彼らはどんな「庭」を守ろうというのかって思ったよ。
キミの理屈を推し進めると、ノイズ排除に伴い、、その「庭」とやらはどんどん小さく、そして凝縮されていく
可能性がある。もっと端的に言うと、年とともに、いや現実がのしかかって来ると共に庭は狭くなる。
庭=個なら、すなわち個が消滅するということだ。
だから自分の庭を死守するには、現実にも防波堤を作り、そして『庭』を作らねばならんのだよ。