なぜオタは現実をそこまで忌み嫌うのですか?
私だって現実は好きではないですが、好き嫌いで判断したところで、それはただの
現実逃避以外の何物でもなく、現時的に意味がありません。
神がいようが、いまいが天に唾すれば自分に戻ってくるのは「道理」。
その道理を無視して生きることは不可能であり、ならば、その確定要素を考慮し
巧く生きるほうが得策。でも、悲しいかな人間は道理だけは生きてゆけない。
こうしてオタはそのつまらぬプライドのために、現実を否定し自分を肯定するわけです。
哀れ。
現実逃避以外の何物でもなく、現時的に意味がありません。
神がいようが、いまいが天に唾すれば自分に戻ってくるのは「道理」。
その道理を無視して生きることは不可能であり、ならば、その確定要素を考慮し
巧く生きるほうが得策。でも、悲しいかな人間は道理だけは生きてゆけない。
こうしてオタはそのつまらぬプライドのために、現実を否定し自分を肯定するわけです。
哀れ。
だからオタはエロゲーしたりアニメ見たりする
その大半は現実と区別してる
少なくとも#7は、たとえばダメ人間向け企業体を潰すことなどせんだろう
力があるとも思えんし
俺が言いたいのはそういうこと
>それさえやらなきゃ暴動にはまずならない
?
そんなこと生きてれば大なり小なり、起こることだろ。
そうならないために今があり、その積み重ねが人生の価値だろ。レベル上げぐらいしろ。
今みたいに娯楽が溢れて、もうそれだけで満足している易い連中が「快か不快」で
物事を判断して(これがオタ連中が幼稚だと言われる最大の理由)ばっかで生きてて、
「自分を肯定してくれた他人の手による何かを潰されること」を防ぐことが出来るの?
窓口を塞いで、より内面に篭る以外に防御手段ねーじゃん。こんなんじゃオタが暴動起こしても潰されるだけ。
結果が分かってるのに騒ぐだけで終る思考回路って、どんだけ逃げの人生なんだよって感じだな。
「自分を肯定してくれた他人の手による何か」を潰されることだ
それさえやらなきゃ暴動にはまずならない
社会に潰される、社会不適合者、「オタ趣味しかない」云々はオタク以前にダメ人間
ダメ人間からオタ趣味を取り上げても何も変わらないよ
オタ趣味に相当する他の何かを見つけるか、復讐するか、もぬけの殻になるか
他人のことに興味ないんだよね。その上自分の興味あることにしか反応しない。
そういう部分は本当に社会性も無いし幼稚と言える。
彼らだけの「現実社会」があるのなら別に問題ないだろ。橋が焼けようが。
オタの庭は現実社会ではなく、オタ趣味しかない人間の最後の砦、いうなれば現実世界に柵を持たない「脳内現実」の庭。
社会と窓口を持っているかのようにみえて、それは出来うるならば「必要ない」と思ってる程度のシロモノ。
つまりオタは総てにおいて上辺だけの存在であり、庭の例にしても、ネコの額ていどの狭いものしか持ち得ない。
その脆弱性が社会への敵意を育てる。キミがどんなに村社会だと社会を揶揄しようが、オタと社会のパワーバランスは
変わらない。永遠に。まず、それを受け入れるべきなんだよ。シカトするべき世界設定を多くすると、自己防御に攻撃性が
生まれてしまうという危険性に気がつかないのは、オタとオウムの仕様だということを忘れてはならない。
社交性とは窓などではなく、防御手段の一つなのだということをオタは学ぶべき。じゃないと社会から潰されるぞ。
いるのか? オタクを攻撃するのはオタ以外の相違などではなく、オタ自身がそうたらしめているだけだ。
いうなれば社会不適合者へ向けられる得体の知れない存在としての忌諱が、現実への乖離が、だ。
(それが今回の秋葉原無差別殺人犯への動機の解明にも使われてる)
私がいいたいのは、どうしてノイズ排除という庭の純粋化しか「自己防衛手段」を持てないのかという疑問だ。
オウムは宗教にありがちな個人ランキングを用いて、信者をコントロールしていた。オタのノイズ排除による
庭(=個)の純化、防御作用も、結局は社会という「巨大個人ランキング評」に踊らされた結果でしかない。
オウム信者は今でもオウム自身を信じている者がいる。あれだけの悪事を、悪意を見ても信仰に何の影響も
及ぼさないというのだ。オタも同じだ。いかな現実を見ようが『それ(オタ趣味)しかない』から変われない。
オタはオタの、企業人は企業人の、女子高生は女子高生の、右翼は右翼の、左翼は左翼の、教団は教団の、
それぞれの小さな共同体、彼らだけの現実社会を囲い込み、それらをつなぐ橋はすべて焼け落ちてしまっている。
麻原への信仰というチャンネルに合わせれば、オウムだかアレフだかの窓口にだってアクセスできるが、
それを現実だの社交性だのと呼ぶことができようか。
個などは問うまでもなく、小さな村の中で溶けて消滅している。囲い込まれたものの総意が存在するだけだ。
オタクを攻撃するものは、オタク以外の村の総意であり、空気であって、また彼もどこかの村人にすぎない。
その話が好き嫌いの範疇でしか語れない、ONとOFFしかない会話なんだからツマランこと必至だろ。
だから会話の現実を知ると、その窓口とやらも、どんどん狭まってゆく。
ノイズ排除しか芸のない防御手段だからなのか、今のオタは女性に対して、恋愛に対してファンタジー感を持ちすぎ。
現実の女性に少なからず落胆を覚えるようだが、じゃあ、オマエはどうなんだよって話には絶対にいかないのが情けない。
どこまで行ってもON、OFFしかない。自省がない。今しか見ない。
ハルヒすら最後は社交性を持ったんだから、萌える前に自分を変えろよ。そういう部分はシカトするから、オタの個性は
「個」ではなく、単なる「現実逃避の結果」でしかないんだよ。オタが個を叫ぶには、あまりにも彼らは脆弱すぎる。
俺の知り合いに、嫌いな人間はもうその後に人物評価が変わることがないと言っているダメ人間がいるが
そんな単純な評価基準でいったい彼らはどんな「庭」を守ろうというのかって思ったよ。
キミの理屈を推し進めると、ノイズ排除に伴い、、その「庭」とやらはどんどん小さく、そして凝縮されていく
可能性がある。もっと端的に言うと、年とともに、いや現実がのしかかって来ると共に庭は狭くなる。
庭=個なら、すなわち個が消滅するということだ。
だから自分の庭を死守するには、現実にも防波堤を作り、そして『庭』を作らねばならんのだよ。
だから、いいんじゃね。存在しても。
余裕のないオタの現実逃避(=真面目、優秀の証とやら)の行き着く先は秋葉原の無差別殺人野郎と
同じで、つまりは自分を認めない社会への復讐になるんだから、それに比べ無害な余裕オタは無問題だろ。
繰り返すがオタク趣味は悪くないし、オタクも嫌いじゃない。
現実逃避を正当化して、しかもそれを自分が優秀な証だと本気で考えているヤツに虫唾が走るだけだ。
だからオタク趣味を攻撃するつもりなんて毛頭ない。
ただ「萌え」はオタ行動ではなくセンズリと同列の下卑たものだと思ってるので、その流れとして
趣味にプライドのないくせに、自己弁護だけは一丁前で、現実逃避の一点張りしか人生観のない
人間(3票目の発言者)が大嫌いなだけ。こいつはただの犯罪者予備軍。オタではない。
ただ世間からは同一視されてると思うので、オタクという言葉を用いたまで。
わざわざオタ(オタク)なんていう風に限定するから
「じゃあ余裕のあるオタクはどうなの」って話を持ち出される。
その後でまるで「分かってないな」といわんばかりに解説されても。
ああ、ダメ人間をこき下ろすこと自体は別になんとも思わないけどね。
>その自虐性すら愛するという現実を愛しているのであって、
>オタは現実を忌み嫌ってなどはいないのだ。
それは「余裕のあるオタ」。
いわゆる社会的道義と趣味を「両立」させている存在のみが得られる情動。
萌えてばっかの添い寝エロシーツで寝ているダメ人間が絶対に得られない領域。
それが出来たら苦労はない。
自己愛が膨らむということは、社会の中で自分の存在を認めてくれる(=社会的道義、責任)がないからこそ
生まれる自己弁護方法なんだから、趣味の消費以外に何もなしてこなかったダメ人間には出来ない芸当。
部下を持ち、妻を持ち、子を持ち、親を養うという責任の連打に耐えられる人間性でないと、人は人を評価
しないという社会根本のイデオロギーを理解するには、自分を多少なりとも捨てなければならない。
それが消費することでしか自己表現方法を持たないオタに出来るかといわれれば、NOだろ。
こんなこと小学校のコミューンからでも学ぶことは可能。それが出来なかったから=オタなんだし。
結果は既に出ている。
あえて敷居を作るのだというニュアンスでとっていただければありがたい。
いや、それだからこそ現実は面白い。それを排除するのはおかしいと思うかもしれないが、
しかしオタクは自分の庭にきちんと窓口を作っているのだから、そこで話をすれば良いだけである。
相容れなくともそこで立ち話なりは出来るのだ。
またオタクもその世界観は必ずしも一定では無いだろう。つまり何かに影響されることもある。
しかしその一瞬一瞬に関しては必ず何らかの形で囲い込みをやっている。
さらにこれは私見だが、最近のライトなオタクはオタクらしくない。筋肉マンの代わりに
ひぐらしやハルヒを見ているだけであるように思えてならない。本当のオタクは常に一定の割合なのでは
ないのかと思う。
自分だけは肯定してもらおうとか
虫が良すぎるというかなんと言うか
オタクは一度囲い込みを行って土地を整理する必要がある。そうやって出来た敷居の中に
自分の庭を作り、自分の世界を作る。これが彼の「個」の象徴として機能し、「個」が
存在する以上、「個」にノイズを掛けるような存在はあってはならないからやはり現実を
締め出さねばならない。そうする事で訪問客のみがその庭を踏むことが出来、誰かに
踏み荒らされる心配もなくなる。このように「個」の窓口を作るために現実という、
人々が混在する空間をあえて捨て去っている。
その上でオタクは他者と触れ合うのだとすれば、よほどオタクのほうが社交的である。
何故なら他者との交信は明瞭化され、「私とあなた」という概念の中に他者を設定できるからである。
ただしここでは現実とは、ある世界観一色で塗りつぶせないような場所だと定義している。
その背景にある自己愛についても承知しており、
その自虐性すら愛するという現実を愛しているのであって、
オタは現実を忌み嫌ってなどはいないのだ。
まあ、世の中には#3の例みたいなヤツもいるって現実もあるんだから、
自分と違う価値観の人間はその存在を考慮してあげて、適当に受け入れてやればやればいいんじゃねえの?
そういう現実に不満をぶちまけなくてもoavwfeは自己崩壊せずに生きていけるんだろうから。
たとえば、釈迦の行動なんてその引用した文章の典型だよね。
ちなみに、それは単なる個人に対する分析であって証明の一例にはなってない。
自分本位の考え方をし、それを取り巻く現実(女性環境)を総て否定(現実忌避)している。
ようするに自分に非は一切ないと言っている。そして現実を嫌うあまりに、現実にしかありえない
女性をわざわざ『現実の~』などと注釈をし、現実の女子と二次元の紙女とを同列だといわん
ばかりの含みを残している。この言い回しが愚かしいのは、そもそも他人である異性に対して、
自分と違った価値観を持っているという当たり前の「現実」を考慮してないどころか、
その現実を一切受け入れるつもりのない狭量さを恥ずかしげもなく暴露し、それをして自分が
優良主である証明に使っているところだ。彼にとって、自分に不利な現実を受け入れると、
自分が優良主であることが崩壊するので、現実を受け入れる事が不可能となっている。
ようするにちっぽけな現実を受け入れると、簡単に自己崩壊してしまうのがオタであるのだ。
>そうして作られた人間性から現実の女などを見ると
>本能的に見下してしまう部分があるのかもしれないね。
>「真面目すぎる」「優秀すぎる」というのは、かえって不幸なことなのかも。
これはオタが現実(=女性)をいかに忌み嫌ってるかという証明の一例。
異性について、このオタは激しく現実忌避を行っており、そして異常なまでの自己愛をさらけ出している。
具体例を挙げてほしい。
(まだ皆にオタクだって言ってないけど)オタクだって言うことで差別するのはやめろ!とか言ってた若者
っていうか箱コメにもそうあるじゃん
自分に不都合ならやらんよな
社会性、人間性が特に幼い。
永遠に現実とオサラバ出来るじゃん。